2021年03月11日

あの時の記憶

10年前に宮城県気仙沼市で撮影した画像を公開します

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津浪で流されたJR気仙沼線の車両(2011年3月17日撮影)
流されていく様子を亡くなった祖母が自宅で見ていましてね
曰く「ふ〜っと浮いて、す〜っと流れていった」とか

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JR気仙沼線・岩月の切り通しから本吉の方向を眺める(2011年3月17日撮影)
津浪で流された車両は、この先の築堤の上で緊急停車した

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JR気仙沼線・岩月の切り通しから気仙沼の方向を眺める(2011年3月17日撮影)
この先、面瀬川を渡った向こうに松岩駅があった

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かつて祖父母宅のあった松崎尾崎を南から眺める(2011年3月17日撮影)

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松崎尾崎の入口に架かっていた尾崎橋(2011年3月17日撮影)
この橋を渡って松岩駅や片浜バス停へ行ったっけ

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松崎尾崎にあった旅館「海光館」(2011年3月17日撮影)
他の家屋が基礎だけを残して跡形もなくなった中、鉄骨造りが幸いしたのか残っていた
布団を干していたのがすごく印象に残っている

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かつて祖父母宅のあった場所(2011年3月17日撮影)
随分前に高台へ引っ越していたので災難を逃れたが……

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かつて祖父母宅のあった場所からの眺め(2011年3月17日撮影)

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手前がかつて祖父母宅があった場所(2011年3月17日撮影)
その奥に見えるのが「おやま」と呼ばれる尾崎神社

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尾崎神社の様子(2011年3月17日撮影)
境内へ上がる階段(1枚目・2枚目)の途中まで津浪が迫ったらしい
でもおやまが尾崎の人たちを守ってくれました

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尾崎神社から眺めるホッキ島(2011年3月17日撮影)
祖父に連れられ漁へ出た時、よくホッキ島へ連れてってもらった

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松崎尾崎の防潮堤から西を眺める(2011年3月17日撮影)

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鹿折にて(2011年3月19日撮影)

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この日は従姉妹と2人で叔母のクルマを探しに行ったら……あった!(2011年3月19日撮影)

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陸へ打ち上げられた船(2011年3月19日撮影)

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大川に架かる曙橋からの眺め(2011年3月21日撮影)

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波路上から眺める岩井崎(2011年3月21日撮影)

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波路上で見かけた電柱のなれの果て(2011年3月21日撮影)

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旧本吉町境付近から眺めるJR気仙沼線と国道45号線(2011年3月21日撮影)

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被災した気仙沼向洋高校(2011年3月21日撮影)

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波路上漁港の水門(2011年3月21日撮影)
引き波で流れてきた瓦礫が引っかかって,この通りの姿に

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道の駅・大谷海岸&JR大谷海岸駅(2011年3月23日撮影)
岐阜へと帰る途中に撮影

−…−

3月14日夜、クルマに支援物資を満載して自宅を出発。

東北道は通れず、国道4号線は渋滞が激しいと聞き及んでいたため、いったん日本海側へ出て、山形県の鶴岡から最短距離で東北地方を横断するルートを選択。15日朝に新潟県の胎内にある本家で休憩を取った後、気仙沼の祖母宅に着いたのが、まだ明るさが少し残っていたので夕方の5時半ぐらいだったかなぁ。まったく連絡の取れない状態だったけど、みんなの無事を確認してすごくホッとしたのを覚えている。そして持参した発電機を回して灯した明かりの下で夕食。電灯がついた家、その時は祖母宅だけだったような。

翌16日からは親戚の支援活動。従姉妹を連れて千厩まで買い出しに行くのがメインだったけど、その合間にJR7RFF熊谷さんやJA7FTR佐藤さんと会うことができた。そして支援活動が一段落した後、職場ぐるみの復興支援活動の足掛かりを作るべく動いたところ、同業者の協力を得て、22日に第一陣が気仙沼に到着。それを見届けた翌23日、帰途についた。

気仙沼滞在中に感じたことetc.を以下に。

■とにかく情報難民だった。携帯電話は不通だし、AMラジオは広域の情報ばかり。地上放送は停電で送信所がダウンしていて観られず、CATVは壊滅的な被害を受けていてダメ。BS放送はAMラジオと一緒でほとんど役に立たなかった。なので千厩へ買い出しに行った時に携帯電話で情報を入手。通信手段の途絶した被災地にいると、地元密着の情報が入って来ないのは本当に不便。
■17日に松岩にあるdocomoの基地局が、NTTドコモ北陸のエンジニアの手により仮復旧。バッテリー稼働だったためサービスエリアが極めて狭かったものの、復旧を聞きつけたドコモユーザーが多数基地局の回りに集まってきてた(私もそのひとりhi)。みんな情報や人との繋がりに飢えてたんだねぇ。
■自宅が被災して住めなくなった伯父夫婦に会いに避難所へ行った時、他の避難者たちの冷たく鋭い眼差しにはいたたまれなくなった。そりゃそうだよね……。
■HF帯の無線機と7MHzのダイポールアンテナもクルマに積んであったけど出番なし。144MHz-FMでJA7JSK佐藤さんらと情報交換したけど、気仙沼ではアマチュア無線を使わねばならないほどの状況ではなかった。登米市の局が144MHz-FMで沿岸部の局への呼びかけをしているのは聞こえたけど。

私の親類縁者はみな無事だったこと、震災直後の状況には直に接していないことから、震災10年目の節目にこうやって公開してもいいのか悩みましたが、自分の記憶が褪せる前に自分が見聞きしたことは残しておこうと、自己満足でしかありませんけど記事化に踏み切りました。

取り留めがなくなってきたのでこの辺で……。
posted by きこり@JH最大の難所 at 01:15 | 岐阜 ☁ | Comment(4) | がらくた入れ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
その節はご支援ありがとうございました。
10年経って今はすっかり様子が変わり掲載された画像を見ると昔の街並みを思い出します。
当時は本当に情報難民でした。
安否確認をラジオ等で聞いてその情報を提供したくてもこちらから送る術が有りませんでした。
DE JR7ANB

Posted by あんB at 2021年03月12日 20:07
>あんB
ご無沙汰しております。
昔の街並み。そうですね、今でも松崎尾崎の密集した家並みや松岩駅の佇まいは良く覚えています
情報は、そういや確かにこちらからの発信は、携帯が通じるまでほぼできなかったですねー
世の中は情報社会なんだと、あの時はホント痛感しましたhi
Posted by きこり@JH最大の難所 at 2021年03月12日 22:23
本当にひどい 次男が1週間後に仕事にて入りました
短い動画ですが見ました この後の原発事故も
当御前崎市にも中部電力の原発がありここで働く人経営者この現状写真見て何と思うか 聞きたい
なんとも思ってないです ただ動かすことのみしか
考えてないです どうしたら うごかせれるのか一生懸命安全対策もどきこれでもかとやっています
『安全に絶対はない』 住民 国民のこと何んにも頭の中にない   
Posted by jo2lnc at 2021年04月04日 17:51
本当にひどい 次男が1週間後に仕事にて入りました
短い動画ですが見ました この後の原発事故も
当御前崎市にも中部電力の原発がありここで働く人経営者この写真見て何と思うか 聞きたい
なんとも思ってないです ただ動かすことのみしか
考えてないです どうしたら うごかせれるのか一生懸命安全対策これでもかとやっています
『安全に絶対はない』 住民 国民のこと何んにも頭の中にない   
Posted by jo2lnc at 2021年04月04日 17:51
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