2021年03月11日

記憶をたどる旅

10年前の記憶をたどる旅に出ました

東日本大震災の発生後、母方の在所や親戚筋(宮城県気仙沼市)とまったく連絡が取れず。何の手がかりもない中、たまたま観ていたNHK総合のニュースにて、気仙沼市役所(ワン・テン庁舎)に貼り出された安否確認の紙片に叔母の名があるのを発見(後日、同姓同名の別人だと判明)。そこで急遽親族会議にて安否確認と支援のために気仙沼へ行くことにしたのが13日の夜だったかな。

当時、東北道は既に通行止め、国道4号線は渋滞多発というニュースに接していた。そこで、いったん日本海側へ出て北上。山形県鶴岡市から短い距離で東北地方を横断し、気仙沼へ至るルートを採用した次第。

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長野道・梓川SAのガソリンスタンド
3月14日の22時半頃に自宅を出発し、ここでガソリンを満タン
当時は既にガソリンの販売制限が出ていたため、給油できる所ではとにかく給油する作戦

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次に給油したのが、北陸道・黒埼PAのガソリンスタンド(15日未明)
店員さん曰く「大型車は給油制限してるけど普通車はまだ」とのことだった

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新潟県胎内市(旧中条町)にある本家(父方の在所)
ここで少し仮眠させてもらったっけ

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最後の給油地点(新潟県村上市 - 旧山北町)
事前の情報収集で東北地方では軒並みガソリンスタンドが営業していない可能性が高かったため、県境ギリギリのここでしっかり給油
店員さんも「たぶん東北では営業していないと思うよ」と言ってたし、事実営業しているガソリンスタンドはなかった
ここはまだ給油制限していないとのことだったので、入れれるだけ入れてくれとお願いしたっけ

この後、国道7号線をさらに北上。鶴岡市から庄内平野を突っ切って、国道47号線を東へ向かう。

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新庄市の国道47号線と国道13号線が交わる交差点
この一角にあったラーメン屋が停電にもかかわらず営業してたので腹ごしらえ
久々に来たら、隣にあったコンビニもろとも更地になってた

ラーメンをすすった後、鳴子温泉を過ぎた後は国道457号線〜国道398号線と走って築館へ出た記憶。東日本大震災において栗原市は震度7だったが、実際に現地を走ってみると「ホントにここは震度7だったの?」という印象だった。築館では国道4号線を横切ったが、渋滞どころかクルマの姿もなく、拍子抜けだったのを覚えている。

築館からは志波姫、若柳と走り、岩手県に入って花泉からは北上川に沿って北上。川崎からは千厩を通って気仙沼へ出よう……。すると千厩駅を過ぎたところで、警察による検問に遭う。津浪の被災地へ向かう車両の通行を制限しているとの由。ここまで来て帰れないので、話を適宜合わせて検問をパス。国道284号線を東へ進んで気仙沼入りしたのは、7〜8割方暗くなった頃だった。

国道284号線から国道45号線・気仙沼バイパスを南へ走っても、停電で明かりが皆無なのもあり、本当に津浪が来たのか?! という印象。しかし、眼をこらすと確かに何となく違和感。そして翌朝(3月16日)、惨状を目の当たりにする。

震災直後に撮影した画像はこちら

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一関市千厩のS・PIAとSUNDAY
気仙沼に滞在中、ここまで買い物に来た
先述の検問は、17日だったか18日だったかには無くなっていたような覚えがある

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従姉妹の勤めていたコーヒー店のあった場所
震災の直前にテレビ局の取材があり、サンドウィッチマンが来ていた
2階建ての建物は完全に津浪に飲み込まれていたが、店のロゴをあしらった看板などは残っていた

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中谷地の交差点から気仙沼大橋方面を眺める
前職での職場ぐるみで携わった支援事業では、この辺りから気仙沼大橋に向けて瓦礫を除去していった

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内の脇。この道も前職の同僚らが林業用重機を操って瓦礫を除去した
その数年後、こころ旅で火野正平さんがこの道を自転車で駆け抜けたのを観た時は感慨深かったな
今は区画整理が進み、以前のように曙橋へは通じていない

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職場ぐるみの支援事業では、本当にお世話になりました

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JR気仙沼線の南気仙沼駅
元々あった場所にBRTの駅として再出発

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曙橋の近所にあるJR気仙沼線のアンダーパス
下の古いほうが元々の鉄道橋、上の新しいほうがBRT用として新たに整備されたもの

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国道45号線・気仙沼バイパス沿いにある駐車場併設のお手洗い
震災直後は上下水道がともに使えないため、排泄物を流すことができなかった
そのため便器には文字通り山盛りの……

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NTTドコモの松岩基地局(移転した?!)
19日に仮復旧した時には、ここへ大勢のドコモユーザーが押し掛けていた
またこの道をクルマで走っている時、JA7FTR佐藤さんとばったり出くわしたっけね

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松川のラーメン屋「ラーメン味噌家」
ある日、千厩からの買い物帰りにこの店が営業しているのに気付く
従姉妹と顔を見合わせ「寄ろっか?」と一緒にラーメンと餃子をいただいた
とにかくすごく美味しかったことを覚えている

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気仙沼市役所の前の通り
津浪で動けなくなった(ガス欠も?)クルマが何台も放置されていた

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鹿折にて
震災直後、大規模火災があった場所

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新しく架け替えられた面瀬川の尾崎橋
堤防がかさ上げされたため、以前よりも高い位置に橋桁が架かった
奥に見えるアーチ型の橋はJR気仙沼線のBRT専用の橋

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現在の松崎尾崎
災害危険区域に指定されているので、人の住むことはもうない
すっかり変わってしまったが、おやまだけは以前のまま

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ホッキ島

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祖母宅から眺める鼎が浦
気仙沼線の列車が津浪に流される様子を目の当たりにした祖母は7年前に他界……

3月15日から23日まで気仙沼に滞在した後は、本吉まで国道45号線を走り(事前に本吉までは行けるという情報を得ていた)、そこから佐沼へ出て仙台へ。途中、涌谷で志津川の知人……着の身着のままで避難し、携帯電話以外はすべて津浪に持って行かれたという知人に会って無事の再会を喜んだっけ。仙台からは山形〜新潟と走り継いで帰宅したのでした。

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仙台在住の親友から情報を得て、帰り道に立ち寄った作並の日帰り温泉施設
約10日ぶりの風呂に入ったっけね

以上、記憶がまだ残っているうちにと10年振りにあの時のルートを辿ってみました。

それにしても、あっと言う間の10年だったな−。その間、いろいろあった。転職したし、祖母を筆頭に親戚筋で亡くなった方が何人か。こんなこともやったね。まあ、何だかんだと生きてることに感謝しないと、だな。うん。


posted by きこり@JH最大の難所 at 23:56 | 岐阜 ☁ | Comment(2) | がらくた入れ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 ご無沙汰しています.もう10年過ぎましたね.
 3.11から一月が過ぎた頃,赴任先の1エリアからやっと自宅へ帰って,周りの道を車で確認に出かけた.
 今までそこに街があり,人がいたはず,その悲惨さに,運転しながら涙がこぼれだした.津波の被害は凄まじいものでした.
 今でも,その頃を思い出すとグッと来てしまう.
 2011 3.11 14:46 この数字の羅列は,SKになるまで忘れる事は無いでしょうね.
Posted by JO7MJS/sam at 2021年03月18日 07:43
>JO7MJS/sam
ご無沙汰しております。本当にあっと言う間の10年でしたね。
津浪の被害は本当に凄まじかったですね。小さい頃から見慣れた家並みが、本当に跡形もなくなってしまったのを目の当たりにしたときは、ただ呆然とするしかなかったです。
自分の中でも記憶の風化が進んでいるので今回はひとり出掛けましたが、10年という年月の重みを実感した旅にもなりましたhi。
Posted by きこり@JH最大の難所 at 2021年03月22日 00:06
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